森林,野山,平原,地中,木々、あらゆる自然環境に衣服を投下。生物との共存、天水や自然光の恩恵。あるいは自然の猛威という厳しい環境直下での洗礼を受け、その1年後(長くて3年)、収穫をする。収穫した衣服というのは生地の触れ心地や、包まれた陽光の香りにとどまらず、圧倒的ともいえる “精彩” を獲得しており、それはまるで絵様のような美しさである。視覚的魅力として、自然界における四季や風、あるいは成長というものが衣服その1着に保存される。
また洗礼により瑕疵/変調が生じた衣服は、ひとりの女性がすべて手縫いで修繕/補修をする。
このようにして、1着に生命が与えられる。
上述の一連が、KARIM HADJABにおけるメインクリエイション「4Saison」であります。仮にも同一の個体,同様の自然環境,同じタイミングでの投下,同等の条件をパスしたとしましても、不規則的な自然環境下においては等しい “成長” というのは決して叶わず、詰まるところ、究極的な「個」が獲得されるわけであります。因に、同等の条件にて(個体は違えど)行った実例が2着のみ御座いまして、袖を結び合わせ自然界へ投下。片時も離れず、生物の享受も、容赦ない天災も同じく。しかしながら,当然ながら、収穫後は個体として飽きれるくらい鮮烈な差異、驚くほど “不等” で御座いました。同環境下で成長を遂げたという意味性もあってか、氏はその2着を「双子」と称しております。内省的な彼らは店内の何処かにひっそりと息を潜めておりますので、この子か、と視界に捉えた際は、どうぞ対話をお愉しみ下さい。
コレクト/インコレクトの法令下とは全くの逆方向で成立する世界。正解/不正解がなく、制限がなく、自由があり、しかし孤高であります。ありえないほどの独立性。Argileにおいても完全的個体性というものは確立され、平たく申し上げましても同等同個が有り得ない。しかしながら “同じようなトーン” でありましたら “近しい彩色を具有した” 作品というのをご紹介させて頂くことは叶いますが、4Saisonを通過した個体というのは、内包された意味性それ以前に、視覚的魅力が全的に,新鮮に,不規則的に,宿命的に保存され、故に “同じようなトーン” という漠然性が存在し得えず、 “こう在るべきして在る” 運命的な美しさを強く感取致します。
わたくしのクローゼットに迎え入れたファーストピースも4Saisonの1着で御座いました。ほとんど、といって差し支えないほど日々お世話になってまして、4saisonに加え「2face」という2着の50sウェイタージャケットを裏表で縫い合わせたリバーシブルクリエイションですので、考慮を払いましても凄く分厚い。コットンなのに分厚い。夏に着用するととても暑い。しかしながらコットンという御素材に絶大な信頼と敬意を憶えるわたくしは真夏でも何を考えているかわからない目つきで着用するわけです。夏場には10日に一度ぬるま湯で洗濯。タンブラー(儀式のようなもの)。裏表あるのでポケットは8つ。ドロドロのキャラメルとムービーチケット、2年前のティッシュ。そしてこの機会にご縁があり、2人目を我が家へ迎え入れたわけでありますが、こちらはシングルのカバーオール(論を待たずコットン)ですので、毎日しっかりとした目つきでお世話になっております。そのように習慣化致しますと、KARIM HADJABの服という感覚が消滅し、どこの自然環境に身を置いただの(この2着に関してはわたくしも知らない)その過程すらも意識から遠のき、習慣物としての決然とした “手応え” のみが残ります。それはときに脱いだときの皺として、襟の擦れとして、チェストポケットの溶けたキャラメルとしておおかた具像的になり、強力なリアリティを帯び、収拾がつかなくなるほど可愛くてたまらなくなるのです。女性は遠のきます。
SURR by LAILA 小林
03-5468-5966
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KARIM HADJAB , 4Saison , base : 40s Frenchwork natural cotton coverall
p.s. 新作である此方は、天然インディゴによる染めを実行した後、4Saisonを通過した極特異点。 “精彩” をダイレクトに感じて頂けるほど鮮やかなターコイズブルーへ成長した個体。宜しければ。
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「Karim Hadjabの表現でなければ」というだけの熱気がある。
1年間自然界に放置する。泥で染める。バクテリアに衣服を食べさせる。それらを治して(直して)着られるようにする。そこにもし、条理というものがあるのなら逸していると思うし、あるいは反しているのかもしれない。それにもかかわらず、氏の “表現と実現” というものには、極少数ながらヒトを強く惹きつける何かがあると思う。「Karim Hadjabの表現でなければ」というだけの熱気がある。わたしにとっては、Karim Hadjabという人物自身に強く心を奪われているから、という回答が、起因する理由の骨子であるように思う。
環境と資金があればわたしにでもできるのかもしれないし、トライするチャンスというものは皆にあるわけだが(簡単にはいかないというプロ・ロジカルな実際は非・前提に)、仮にも同等のクリエイションが、仏左岸の億万長者によるメゾン界を震え上がらせる前衛的な取り組みであったとしても、中東石油王の持て余した暇つぶしであったとしても、今をときめくファッションスターが「服を大切にしよう」とプラカードを掲げる資源演説的取り組みだとしても、少なくともわたしは心を動かされないと思う。たとえ別の種類の感動を憶えたとして、対価を払って着ることはないだろうと思う(根拠のない個人的の話だが)。氏のクリエイションは、どういう意図で、どういう種類のパッションで、どういった哲学をもって、どれほどの愛を注いで成しているか、とてもハッキリとしている。わかりやすいほど、深い。『 時を経た洋服は、まさに人間のように生きている 』など表面的に理解しようとしてもそうはいかない。そういう意味で、とてもクリアである。そこには、ファッションというこれからのあり方にとってのひとつの可能性が、もしかしたら潜んでいるのかもしれない。そうはいっても、KARIM HADJABというネームにもブランドにも(ブランディングというものがあればを前提に)クリエイションのみに惹かれているわけではない。例によって、Karim Hadjabという人物自身に強く心を奪われているわけである。根源的ともいえる氏の無垢な愛情と、深い情熱と、少年のような人間性と、女性を大切にする紳士性と、そして服への絶大な敬意というものに、見事に心を打ちのめされているわけであり、それらが総合的に凝縮された「表現と実現」に圧倒されるわけである。それは誰しもが持ち得る資質であると同時に、努力では決して持ち得ない種類の資質であるように思う。そこに感じる深い魅力というのも、無条件に等しい。そのようにして、強く惹きつけられるのである。Karim Hadjabというひとりの男性に。KARIM HADJABという紡ぎだされた創造に。同氏が愛情を注いだ衣服に。そしてそこには「Karim Hadjabの表現でなければ」というだけの熱気がある。
ヴィンテージが、ファッションが、落し所が、丁度良さが、スタイルが、既成概念が、SURRというフィルターが、それらの不確かな感覚や確かな性質による擦り合わせや検討や発信でもなく、ひとりの男性として “ 着たい ” と思えるだけの熱気が、わたしにもある。その想いや情熱というのを(結局のところ具体的な意見を持たずして)わざとらしく、仰々しく、本文において綴るというのは、青山3丁目の小さなお店からではなく、わたしの大きなエゴと偏見であり、極少数ではなく、少しでも多くの方々に触れて頂きたいという想いの顕れであります。それを混じり気もなく、加工もなく、塗装もせず、表現すると、いささか失礼な文体となってしまったことを最後にお詫び申し上げたい。
お披露目開始となった5月25日より、お越し下さった方、お手に取って頂いた方、試しに袖を通して下さった方、御選定下さったお客様、此の場を借りて、深く御礼を申し上げます。本当にありがとうございます。また、本会期におけるカリーム・アジャブ氏による KARIM HADJAB 名義作品の特別編集につきましては、引き続き、6月10日(日)までとさせて頂いております。弊店の分かりづらい編集点でありますので、僭越ながら今一度のアナウンスとさせて頂きます。擦れ合うご縁にでも感じて頂けましたら、幸いに思います。
KARIM HADJAB , 4Saison , base : 50s Frenchwork cotton coverall
SURR by LAILA 小林
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comming soon
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兼ねてよりご提案を続けてまいりました50年代あるいはそれ以前における、French work atelier coat という存在。就業時、自身の衣服が汚れないように、または来客時に仕事で汚れた衣服を覆い隠すため上から羽織られていた主な活用法でありながら、あらゆる場面に適応する実際力と驚異的な快適性から「完璧な生活着」として永い時代失われず,愛され,護られつづけてきた歴史的所産。膝付近まで覆うことができる守備要素と、僅かな留保すら叶わない軽快さ/驚くほどの軽やかさ、デイリーギアとして実践的なポケットの深さと完璧なポジションは、当時、多くの芸術家たちに愛され、作品制作時のみならず習慣的に着用されていたことから “ atelier coat ” として服飾史に刻まれるに至ったわけであります。
1950年代,フレンチワーカーのためにつくられた衣服というのは、希少性やらヴィンテージ的考慮を抜きにしましても、“本当に美しい仕立て” という見解は店頭でご説明させて頂いている通りで御座いまして、ダーツの入り方やらアームの振り方やらの実際的細部より, “着てなんぼの美しさ” という到達点も、店頭でご説明させていただいている通りであります。何も謂わず、先ずはどうぞお試しを下さい。と接客マニュアルが存在するならば第七章辺りに記載されていそうな文面ですが、特に、そう、コートに関しては。
しかしながらその絶大な魅力というのを必要最高峰の情報として頭の引き出しにそっと仕舞っておきながら、時にメゾンの強烈な美質にやられ、時に正統的気品に打ち負かされ、テクニカルトーンを放つ変態的個体にまんまと骨抜きにされ、そのようにして絶えず,重ねて,コートメモリという引き出しの容量は常にいっぱい。このような機会にメモリの奥から揺り起すに至るのはヴィンテージショップ一店主としては誠にお恥ずかしく、とはいえ心から有り難く、そのようなお話を先日お越し下さったお客様と相通じた時間というのもまた事実でありまして、兎にも角にも、素晴らしいわけであります。ミッドセンチュリー,1950年代、atelier coatというのは。余分な肉付きもなければ、余計な機能もない。ましてや当時、大変に稀少かつ高価であったリネンの占有率が高いコットン&リネンともなれば、私からは何も申し上げることは御座いません。接客マニュアル第七章を発動するわけであります。
このような機会に、感覚の揺り起しというのが決定的に行われたわけでありますが、そこに起因する理由の大部分が、謂わずもがな「Argile」で御座いました。カリーム氏が凝視する年代,ミッドセンチュリー,1950年代,フランス市民のための別称atelier coat。501bigeのレッグラインとまるで同じように備わる最高峰の“ノーマル”。マリ共和国の民間伝承を通過させることにより、天然色としての黒を手に入れただけでなく、完全的に浄化された風格というものは、“ 圧倒性 ” という言葉をもってしても程遠く、“ 超然的 ” という言葉でさえも手応えを感じず。そもそもこの会期に際して、私は「Argile」というプログラムに完全にやられてしまいまして、色調や視認できる個体性,独立性、完璧なる個性という要素のみでも十二分に魅力的なのですが、この色調というものは副次的産物にすぎない、と、(あくまで)わたくしは捉えておりまして、他クリエイションや、今現在のメゾンにおいてさえも確実に存在しえない「浄化」こそ、絶大な魅力であるように感取致します。氏の言葉を拝借するならば、それらは実際的に「生きており」、僭越ながら自身の言葉を置かせて頂きますと、「(限りなく)無垢な,衣服に,純化した」そのように憶うわけであります。故に、2つほど欲を謂わせていただくと、雑念なくフラットに向き合って頂きたいのです。そして触手を少しでも伸ばして頂けるならば、1点だけお好きな個体の袖を通して頂きたい。各作品にはブランドプレートや品質表示やらサイズ表記やらもなく、しかし購入する寸前まではKARIM HADJAB / argile / coat でありますが、手に入れていただいた瞬間にはそれらの情報というのは引き出しの奥底にそっと仕舞っていただき、例えばそれがatelier coatであれば「完璧な生活着」の実証とともに、ひとつの生命のように心から可愛がっていただき、末永く、恒久的に、愛情を注いでいただきたく存じます。誠に勝手ながら。
KARIM HADJAB , Argile , base : 50s Frenchwork cotton & linen atelier coat
SURR by LAILA 小林
03-5468-5966
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