– Argile –
カリーム・アジャブ氏が今現在、最も心血を注いでいるクリエイションである「Argile」
先日御掲載頂いたThem magazine様の記事が、要を得た素晴らしい内容で御座いまして(というのも上からの文言に聞こえてしまい失礼かもしれないが)「Argile」の実相につきましても、とてもクリアに御掲載を頂いております。しつこいようで恐縮ですが、下記URLにてリンクをさせて頂きます。
【インタビュー】Karim Hadjab as《APRÉS》
カリーム氏と過ごした時間を咀嚼し、目の前にある1着に熟慮を寄せる、僭越ながらわたくしは、Argileというクリエイションに対する考え方や向き合い方、直感的なインスピレーション等等を超えた、コントロールの効かない “ 情 ” のような感情を抱きまして、なんとも感慨に打たれた次第であります。もし私が宝くじを当てたら、御興味くださる全てのお客様に KARIM HADJAB をプレゼントさせて頂きたいと思うほど皆様と共有したい感情、私も同様であります。(連番買いましたが、数字一文字すら当たらず)

北アフリカは死海に沈殿している泥。“ 衣類を染める ” もしくは “ 身体に塗布し洗い流すことで綺麗にする ” という実際的に護られてきたその死海の泥と目的性は、習熟した行いのように浸透している現地民の伝統的習慣、ある種類においての民間伝承、謂わば、フォークロア。水分量を多く含むその泥というのは、限りなく黒に近いセピア色、“極”天然染料で御座います。ここでいう “ 衣類を染める ” とは “ 伝統的なる黒染め ” に値します。泥を衣服に塗布し、天然色としての黒を浸透させていくわけであります。カリーム氏のクリエイション「Argile」においては、この死海の泥を用いるわけでありまして、その過程において、あるいは事前段階において「草木染め」という行程を踏み、自然界より抽出した天然染料を栄養素のように衣服に注ぎ込み、黒染めが実行され、草木染料,泥の浸透具合や浸透箇所、天候や湿度の差異、様々な自然的要素/不規則的環境,状況により、完璧なる「個体色」を獲得するわけですが、視覚的には、ダークトーンのオリーブベースや、慣用色には名を持たない匿名的なカーキ色、濃密なミルクカラー、そして全体が広域かつニュートラルに濃縮された黒(確認できているのは1点)。それらには近しい3種の絵の具をドラマティックに混ぜたような濃密とも謂える深いコク、そして、あたたかな温度があります。近しいカラートーンが並んだとて全くを持った「同色」という完全性はなく,むしろ比較性を超え、完璧なる「個性」というものが保存された独立色。
何よりも美しいのが、それらに映える “ 色彩としての黒 ” で御座いまして、襟やラペル,袖口に静謐な表情で佇む黒、既成ルールなど無視、リバースして着用した際のあまりにも美しい対比色は、 “ 天然色としての黒 ” の強烈な存在感というものをノンフィクションで感取致します。その様というのは、造形が見事な額縁に収めてすらも成立するであろう美術的視点と、無垢な衣服としての機能が、完璧に近いほど共存していると、拙い言葉/言葉で恐縮ながら感慨に打たれたわけであります。

“ 身体に塗布し洗い流すことで綺麗にする ”
氏は、その意味性や言葉を超えたカルチュアに対する絶対的な敬い、あるいは限りなく深い尊敬、賛美すら抱いております。 “この泥を用いて” “衣服を染色することで” “綺麗にする” 。視覚的美しさや、完璧なまでのアイデンティティを認めること以上に、文化への誠実な敬意と、アナロジーではない力強い実相、概念性を遥かに超えた “ 衣服を綺麗にする ” という美徳、それらは自然的回帰の顕れのように感じますし、ある種類においての「衣服の純化」にすら感じます。実際的な意味でも、概念的浄化であったとしましても『 時を経た洋服は、まさに人間のように生きている 』という氏の無垢な想いに添う行いであり、ひとりの男性の憶いであり、何より衣服に対する不可侵なほどの敬意と愛情を感取するからこそ、これから先はおそらく、この1着を連れ添うことになるだろうと、宿命的なナニカと同時にコントロールの効かない “ 情 ” のようなナニカを深い部分で受け取るのだろうと、拙い言葉/言葉で恐縮ながら、やはり感慨に打たれたわけであります。

KARIM HADJAB “ Argile ”
1950年代の美しき個体をベースとした境地。品質表示,サイズ表記/サイズ展開はおろか、ネームプレートも御座いません。どのベクトルでどのように向き合おうと、どのアイテムで絞ろうと、どのような精選法を用いようとも、どのようにお選びになられましても、どのようなスタイルで着用されましても正解で御座います。
そして、オーナーとしてたっぷりと愛情を注げるような1着、そんな出逢いと成り得ましたら。僭越ながら、我々としましても至極幸福に尽きる想いであります。












SURR by LAILA 小林
03-5468-5966
[email protected]

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本日、カリーム・アジャブ氏による KARIM HADJAB 名義作品の新作御披露ならびに特別編集を開始致しましたこと、ご報告させて頂きます。

従来と同じく氏のアトリエから我々の目線で選択した品々に加え、先日 LAILA TOKIO 1F で行われたインスタレーションのために氏が選んだ品々を幾つか預かることが叶いましたので、それらも加えた我々にとって至福な特別編集となっております。なお後者は期間限定のお取り扱いになりますこと御理解御了承のほどお願い申し上げます。

これまでもこれからも良い意味で難解な存在であり続けるあろう KARIM HADJAB の作品群。引き続き可能な限り沢山の皆様方にお認め頂きたいと心から切実に、驚くほど強く願っております。難解ではありますが一つ確かなのは 実際に着て過ごして頂かなくては御認識頂けない要素が多く、そしてそれは何よりも素晴らしい感情を喚起させてくれる と言うことです。もし私が宝くじを当てたら、御興味くださる全てのお客様に KARIM HADJAB をプレゼントさせて頂きたいと思うほど皆様と共有したい感情です。まぁ当たっておりませんが。買ってもおりませんが。
特別編集による当会期は 6/10 までとなります。皆様の御来店を心よりお待ち申し上げております。

KARIM HADJAB new collection exhibition 5/24 – 6/10
SURR by LAILA 福留
03-5468-5966
[email protected]
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以下の文章は、先日LAILA TOKIOにて行われたKARIM HADJABの新クリエイション「APRÉS」Exhibitionのため、10日間来日していたKarim Hadjab氏と、密な時間を過ごすこととなった弊店ディレクターが、氏の来日中、頭中に浮かんできた想いをそのままの形式で綴った、謂わば作文である。極めて私的な日記のようなものかもしれない。というので、SURR by LAILAというショップのフィルターを通過させることを前提としてはいないセンテンスであり、ディレクターである福留が自分のために「記録」として保存していた内容であるので、上述の通り、極めて私的なプライベート要素と、彼の感情要素が多い内容となっており、常軌であれば此の場を借りて公開すべきものではないのかもしれないが(とはいえ弊店Diaryは私的な内容が多いのでいずれにしても恐縮な心持ちである)、Karim Hadjabという人物を紐解くうえで、もしかすると重要な内容かもしれないという具体性のない第六感と、「氏と密な時間を過ごしたことでしか知る事の出来ない感情」という部分において、その感情や、情景や、あるいは氏がどういった人物であるか、その魅力について、その片鱗でさえ、世界でたったひとりでも共有して頂ける方がいるのなら公開すべき内容ではなかろうかと、ショップマネージャーである私の勝手な裁量により、本文を迎えることにした。おそらく全てを綴った文章ではないと思うが、ほんの少しでもKarim Hadjabという人物、KARIM HADJABという表現を “ 知る ” という事に向けた手助けとなり得れば、私は素直に嬉しく思う。夕食後、アイスクリームを片手に目を通して頂けたら幸いである。
SURR by LAILA 小林
03-5468-5966
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『LAILA TOKIO の 1 階で行われたインスタレーションのためにカリームとクリエイションメンバーが来日してくれたのだが、(現時点で)7回共に過ごした夜明けまでの時間と数えきれないほどの乾杯とハグを経て、またもや彼から様々なことを学んだ。
これまでに彼が行ってきた数多な方法による“服を媒体とした表現”には、彼がこれまでに得た様々な想いが込められている。それを例えば ” 服は生きている ” という言葉で現すとしたらそれが全てで、“自然界に1年間放置する”という行為とすればそれが全てだが、それには生まれた時代や環境、幼少期や青年期、そして今に至るまでの全ての経験が関わっており、それには明るいエピソードもあれば決してそうとは言えないエピソードもある。全ての人々と同じく。
50才を目前とした経験値。フランス国籍という立ち位置。その国で過ごし、実際に目にしてきた様々な出来事。それによって様々なアイデンティティを得ているが、今回共に過ごした中で特に印象深かったのは、自分に正直に生きる。と、人と人とは平等である。という想いだった。
私ごときが言うのは大変に失礼だが、彼は真に少年の感覚を持ち続けている人物だと思う。渋谷のスクランブル交差点を渡るだけでも、代官山から中目黒まで歩くだけでも、ドン・キホーテに行くだけでも、寿司を食べるだけでも、彼の眼は純粋に輝き続けていた。写真も好きな彼のパソコンは歴代のバックアップで常に容量が足りない。
そして様々な道中で聞かせてくれた今の表現への想い。そのうちの一つであるArgileという泥を用いた染めのクリエイションには、アフリカという国にある自然への考えや、それがもたらしてくれる泥という媒介を選んだ理由、その存在意義と特性。そしてArgileを行うことで生まれるアフリカの人々と自身の平等性などが秘められており、彼の純粋な言葉と無垢な瞳で語られるそれらの想いは、彼がいかに稀有な人であるかを再確認させてくれた。
だから彼が“服” “は” “生きている”という言葉を選ぶ感覚基準や、自然界に放置する等の行動とその結果辿り着いた変化が美しいか否かという判断基準は決して誰にも真似することが出来ない。これは間違い無く言い切れること。
彼の環境は近年良い意味で変わり続けているので、もしかしたら遠い未来なのかそれほど遠くない未来なのか、服以外の媒体による表現を行うかもしれない。その行為が良い悪いではなく、私は彼のように尊く無垢な聖人のように稀有な人がやりたいと感じたことは、引き続き是非ともやってほしいと心から想う。もちろん彼が服を用いて表現しなくなったらとても悲しいが、そんな個人感情以上にこの世の中が彼にとって表現し続けたいと想える世界であることを、表現し続けられる世界であることを切に願う。』
2018年5月6日 福留
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