私ごときが云々申し上げる内容では当然御座いませんし其処に美学なる美しき哲学的分科など持ち合わせてもおりませんし、そもそもとして「美学はお有りですか」という設問に対する回答を終日床上から微動だにもせず考えに考えたアオき日も御座いまして、法学教室の前方に座る女子学生の後ろ姿を悶々と眺めることに忙しく(髪を結ぶとき必ず左手から繰り出す癖を見抜いた程)、時に「精神の墜落」というアホみたく長い学術書に取り憑かれていた当時の歪んだ私が捻り出した2つの回答、どこにでも居そうな私の出立ち/風姿/形姿、その大衆性とはまるで裏腹な天の邪鬼極まりない螺子曲がった内情、故に挙げられたそのひとつは「美学など爪の垢程も無い」で御座いまして、もうひとつが「この設問が嫌い」で御座いました。その哲学的分科=自身で知らず知らずの内に大切にしている個人的信念というのは何方様もお有りかと存じます。しかしながらその信念を美しいと自負し認識しアウトプットするほど私は出来ておりませんで、それを謙遜と呼ぶのならそうでしょうし、そんなことを床上で真剣に考えながら外界では女子学生の癖を見抜くような阿呆、というのなら阿呆なのでしょうが、仮にも美学なる個人的信念を説くならば、時の経過とともに深化し、洗練され、間違っていたことに気が付き、誕生と変遷を繰り返しながら辿り着ける領域であろうもの、漸く手に入れた美しき美しき美学というものは聞かれて易々答えるほど滑稽なものはないと、たとえ確固たる美学に辿り着いたとしても私は決して謂いはしない!だからこそ美学であるのだ!そのようにして床上から微動だにせず私自身の精神の墜落を垣間見せておりました。
常用品の基準、など、私ごときが云々申し上げる内容では当然御座いませんし既述の通り其処にさえも美学がないようもんなら、さてさて一体こいつは何を話したいんだ、とは当然の成り行き。そうなのです、未だに美学なる美しき哲学は手に入れていない、とはいえ精神的墜落から幾分浮上は致しましたので攻撃的偏見も今では持ち合わせておりません。美しいと想える其の美学は、多ければ多い程、宜しいかと。
そのように本筋へと突入しますが、私が常用品として選定する上で発動される無意識意志と、選定した品々に対して希求している期待意志というのをそれぞれ暴きますと、前者は不合理にも無垢で裸の心に訴えかける圧倒的訴求力(に委ねる)、これを人は運命と呼びます。後者に関しては選定段階でさえも共通項として挙げられますが、顕要なディテイルとして「修繕の可否」を僭越ながら記させて頂きます。
それはおおかた衣服にも通じますので天然木綿には目がないわけでありますしモノを大事にする精神を讃えるならば「直して、使う」で御座いますし、壊れた、破けた、破損した、とよく耳にしますが、正しくは「壊した」「破いた」「破損させた」で御座いまして、モノを使う責任というものはいかなる成行きにせよ他者ではなく所有者にこそ在ると思いまして「壊して、直して、使う」事が、モノを大事にする極論であり暴論であり哲学であり美しいと自負はなくとも、強いて謂うところの個人的信念で御座います。
さて、選定段階と常用段階でさえも「修繕の可否」詰まるところ「壊して、直して、使えるか」というロジックを対象物にたっぷりと注いでおりまして、その我が侭極まりない私意を注がれる対象物というのは可哀想といえば可哀想。使って、壊して、永眠させてあげるのも付添い人の務めでしょうしモノの宿命で御座いましょうが、一度、本日の暴風雨のように激しく力強い「情」が発生致しますとこれはもう誰にも止められない「情愛」に変貌を遂げ、どこまでも深くカラフルな「信愛」へと進化を遂げるのです。いよいよモノの宿命論の回路がガチャリと変更され、永眠させるなど誰が決めたことかと修繕に情熱を注ぎ(壊すたび職人に怒られるのは仕方なく)、そのようにして 常用品 と化した品々は、全くといって良いほど周囲から誉れの対象にはならず、けれども職質されたことも御座いませんし甥っ子・姪っ子から散々な不評文句を浴びることもなかったのは極めて幸運な事。誰に注目される事もなく、迷惑をかけることもなく、連れ添いながら静かに生きて参りました。私だけが、私のみが、滾々と湧き出て尽きる事がない其の信愛なる情と、故の、絶大な魅力を知ることが出来、常用品と認めることが出来、安心と満足に憶いながら日々を送っている次第。
誠に、幸せ者で御座います。
写真は、法学教室の前方に座る女子学生の後ろ姿を悶々と眺めることに忙しかった時からお世話になっているヴィンテージアイウェア。癖を見抜いた其のアイウェアであり、本日も何かの神秘を見抜こうと必死な、其のアイウェアであります。これからもよろしく。
SURR by LAILA 小林
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